コンタクト

※ この投稿は、2019年5月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

飲み会の席で、あるベテラン心理療法家から「お前は『コンタクト』に課題がある」と言われた。

ここで言う『コンタクト』とは、自分の外側(他者、環境)との接点という意味だ。僕はこの心理療法家の言葉は「他者とのコンタクト」という意味に理解した。

飲み会の席であれば、隣の人とすぐ仲良くなるとか、自然にすっと話の輪に入れるとか、僕はそういうことはない。カウンセリングを学んだおかげで、今では苦手意識はなくなり『ただありのままの自分』を受け入れてはいるが、だからと言って、他者とのコンタクトの取り方がうまくなった訳ではない。ただ「コンタクトの取り方がうまくない自分」を「受容」しているだけである(だけ、と言ったが、それはとても大きなことだが)。

以前、友達のアートセラピーを受けたときは「心は他者に対してオープンだが、自己開示は少ない」という評価をもらったことがある。まさにそのとおりだ。人の話は聴くけれど、自分の話はあまりしない。あまりしない、というか、そこに僕の「心の傷」がある。

どうせ、わかってもらえない。

人に自分の話をしているときに感じるのが、(実際にどうかはおいておいて)相手が僕の話に興味がなさそうに見えると、あっという間に「話をする気が失せる」。そして、言いたかったことを全部言い終わらずに適当なところではしょって終わりにし、話の輪は別の話題に移り、僕の中には不全感が残る。

もしくは、僕の話が終わったところで相手が「どう反応して良いのかわからない」ように見えたり(くり返すが、本当は相手がどう思っているのかはわからない)、「そーなんだー」といった相づちくらいで、話がその後に続かなかったりすると、「ああ、やっぱりわかってもらえない」「こんな話はすべきではなかった」という傷が発動するのだ。

そして「傷つくくらいなら話さない」となる。言い方を変えれば「他者とのコンタクトを取らない」ということだ。

昔は「いつの間にか話の輪の中心にいる人」を見ると、それだけで心の傷がうずいた。そういう人は飲み会の席でも自席を移動して移動した先々で話が盛り上がる。盛り上がるから更に人の輪が広がり、人気者になる。

僕は飲み会で席を移動しない。移動しても何を話したら良いかわからないからだし、僕が移動した結果、その場の空気がシラケたらどうしようという恐れがあるからだ。しかし、僕が移動しなくても他の人は移動するから、移動しない僕の周りは一人、また一人と席を去って行き、僕の周りはがらがらになる。昔はこういうことも嫌だった。

「確かにそのとおりだと思います。僕は『コンタクト』の取り方が下手です。でもだからこそ、僕でないと出来ないことがあると思っています。」

ベテラン心理療法家に僕はそう応えた。

僕は自分がコンタクトが下手だから、下手な人の気持ちがわかる。
多くの人が興味を持つような話の仕方は出来ないかもしれないが、同じように話が上手でない人の話を、自分なら、無理せずに、かつ興味をもって聴いてあげられる。

そして何より「そういうあなたでいいんだよ」と心から寄り添える。コンタクトが下手であるよりも上手な方が都合が良いことは多いとは思うが、「下手だからダメ」「下手だから悪い」ことはないのだ。それは「そういう自分がいる」というだけのことである。

多くの人を魅了する話し方を身につけるとか、多くの人が共通して興味を持つ話題を持つようにするとか、努力したければそれもいいと思うが、例え飲み会の席での受けは悪くても、自分自身が興味があることに専心していった方が自分にとっては幸せかもしれない。そこは自分自身の選択だ。

強みとか、弱み、ではなく、個性。
特性と言った方が把握しやすいかもしれない。

自分自身を知る。
自分の特性を知って、自分にとって最適なコンタクトの取り方を学ぶ。
そもそも自分自身の特性を、善し悪しで判断することなく、ただ受け入れる。

一人一人がそうしていったら、きっと世の中はもっと生きやすくなるだろうな、と思っている。