ゲシュタルト療法、夢のワーク、思考・感情の二重抑圧

※ この記事は、2019年7月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

昨年からゲシュタルト療法を継続的に学んでいる。
今年で2年目だ。

今日(6/29(土))は、自分がワーカー(カウンセリングで言うところのクライアント)となって「夢のワーク」をセッションしてもらった。

自分が見た夢を「現在進行形」でファシリテーター(カウンセリングにおけるカウンセラー)に話をする。その後、夢に登場した人物やモノなどに自分自身が「なってみる」。ゲシュタルト療法では、夢に出てくるすべてが「自分自身」と考える。夢を見た自分が考えていた解釈と、実際に「なってみて」感じることのギャップに驚く。

「夢のワーク」では最近繰り返し見る夢とか、繰り返しでなくとも強烈な印象が残っている夢をワークするのが良いとされているが、僕はずっと夢を見ない、というか、見ているのかもしれないが、何も覚えていないので(苦笑)、仕方なく、若い頃に見て今も強烈に覚えている夢を出してみた。

・・・

僕は三越デパート(のようなところ)の屋上に体育会座りでたくさんの他の客とともに座らされている。僕の目の前に、何人かのテロリスト(?)がいて、その一人と目が合ったとたん「まずはお前からだ」と言われて、そこで場面がブラックアウトする。

・・・

口頭で夢を語った後、テロリストになってみた。

目の前でおびえている客を前にしてそびえ立つ僕に、ファシリテーターが声をかける。

「今、どんな感じがしていますか。」

「圧倒的な優位に立って、とてもいい気分です。
 お前達の命、人生は、今、俺の手の内にある!」

・・・と言ったそばから別の感情がわき上がる。
表情が変わったのだろう、ファシリテーターが

「今、何が起こっていますか?」と問う。

「悲しみがこみ上げてきました。こんな状況は長くは続かない。
 いい気分でいられるのも今のうちだけだ。」

・・・

夢のワークはその後も続き、僕が一通りの配役をこなした後、今度は、周りで見ていた他の受講生達に夢の配役をやってもらった。僕は、彼らが演じる僕の夢を外側から見て、どう感じるか、ファシリテーターに問われた。

「なんだか腹が立ってきました。僕は現実逃避をしているだけだ。」

僕はそう言ったのだが、ワークが終わった後の振り返りで、僕の夢を演じてくれた受講者達の感想は「楽しかった」「ネガティブな感じはしなかった」「『死』がテーマとなっていたが、夢の中の『死』だから、実際に死ぬというよりも、生まれ変わったかのような大きな変化があったというように感じた。これからの人生が楽しみ。」と、みな明るく楽しいと感じていたのだった。

昨年から僕のワークを見てくれているファシリテーターがコメントする。

「わいてきた感情を感じ尽くす前に押さえ込んでしまうのは、まさおさんの癖ですね。」

テロリスト役をやってくれた女性は振り返りで

「人に対して支配的になるなんて、絶対嫌だと思っていたけど、テロリストになってみたら、すごく気分がよくて楽しかった。自分の中にこんな気持ちがあるなんて新鮮でした。」と、まったく屈託がない。

僕の中には「不当な方法で人を支配しても早晩破滅するだけだ」という信念があるのだろう。それはそれで社会生活上有益な信念と思われるが、今回のテロリスト役のように「あってはならない状況」におかれると、自分の中から湧いてくる自然な感情(圧倒的に優位で気分がいい)を即座に抑圧して「望ましい」感情(こんな状況は長続きしないという悲しさ)とすり替えてしまうのだろう。

かくして僕の自然な感情は、思考によって「望ましい感情」に置き換えられてしまう。これもまた僕の「感情の抑圧構造」だ。

他の受講生達が演じてくれた僕の夢を外から眺めているときは、僕自身が「解釈」をしてしまっている。「これは現実逃避だ」→「現実逃避はよくない」→「自分に対する怒り」という流れが出来ている。「感じる」前に「思考」が割り込んで邪魔しているのだ。

「感情に良いも悪いもない」と自分ではわかっているのだが、僕の中にある無数の「信念」「警句」「知恵」が僕の自然な感情の発露を阻害しているようだということが今回よくわかった。

ゆっくり、ゆっくり感じること。
意図的に減速して、思考が入ってきたら気づいて、いったん脇に置いておくこと。

僕にとっては大切な「自分の扱い方」を教えてもらった夢のワークだった。