ハコミセラピー(その3)コーリング

※ この投稿は、2019年8月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

(その2からの続き)

デモセッションの後、少し時間が余ったのでミニワークをした。

4人一組となり、1人が目をつむった状態で、他の3人から名前を呼んでもらうというワークだ。

名前は、自分が人生において今まで呼ばれたことのある名前を3~4つ選ぶ。子どもの頃の呼び名とか、友だちから呼ばれるニックネームとか。

僕は、10年近く前、あけみちゃん講座でこのワークをやったことがある。そのときは、子どもの頃の呼び名を選んで呼んでもらうことになっていた。子どもの頃の名前を目をつむった状態で呼ばれると、涙ぐむ人や「もっと呼んで欲しい」と喜ぶ人が続出した。しかし、僕は身体が遠ざかり、「もうそれ以上呼ばないで!」と拒絶反応が出た。他の人とは違う反応だったので、とても印象に残っている。

なので、今回の自分の反応は予測出来たのだが、子どもの頃の呼び名でなくともよいというので、他のニックネームもまぜてみた。

・まさお
・まーちゃん
・まさおちゃん
・キムキム

最初の2つの名前は、親や兄姉から呼ばれていた呼び名だ。あけみちゃん講座のときには、身体が拒絶反応を起こしたが、今回、2番目の「まーちゃん」は、ちょっと嬉しい感じがした。僕の中で過去の体験に変容が起きたのだろうか。

3番目の「まさおちゃん」は、あけみちゃん講座での呼び名。これは中立的だった。嫌でもないけど、良くもないというか。

予想どおりというか、一番嬉しかったのが「キムキム」だ。目をつむっていても、思わず顔がほころぶのがわかった。これは、ビオダンサの仲間達など10年ほど前に知り合った仲間から呼ばれている呼び名。

事情があって消息を絶った大切な仲間がいた。彼女の声が僕の心のアルバムの中で反響する。

(終わり)

ハコミセラピー(その2)デモ・セッション

※ この投稿は、2019年8月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

ハコミセラピーの2日目はデモ・セッションだ。午前と午後、参加者が一人ずつ志願してセッションが行われた。

ハコミセラピーのフルセッションを見るのは初めてだ。なのでたかだか2セッションを見ただけで「これがハコミか」などと言えるわけもないのだが、それは承知の上で言うと、ゲシュタルト・セラピーとよく似ているな、と思ったのだった。

一つは、セラピストは、いつもクライアントの「今ここ」にいること。テーマが過去の辛い体験であろうと、未来への不安であろうと、セッションの焦点はいつも「今ここ」だ。

もう一つは、徹底的にクライアントに寄り添うこと。これはゲシュタルト・セラピーよりもっと細やかで丁寧かもしれない。カウンセリングで、セラピストはクライアントの斜め後ろをついて行くと言われるが、ハコミの場合、クライアントのどちらかの肩から背中に、ほとんど間をあけずにくっついている感じだ。実際、今回のセッションでは、(相手の許可を得て)セラピストはクライアントの身体にずっと手を添えていた。

テイク・オーバーやプローブといった(これらの用語の説明はなかったが)声がけも、セッションの中で自然な流れの中で、特段「これから声がけしますから」などと予備動作もなく、流れるように、またいろいろと手替え品替えやっていた。セラピストが気になったり、気がついたら、都度声がけするといった感じだ。

周りの参加者の力も大いに借りる。まず初めにセラピストはクライアントに「誰か脇にいてもらいますか?」と訊く。その方がクライアントが安心するなら、参加者から人を選んでもらって、クライアントの隣にいてもらったり、肩を触れていてもらったりするのだ。

僕は「代理」の役で引っ張り出された。自分のセッションではないので中味は書けないが、僕はクライアントを脅かす存在で、他の参加者が総出でクライアントと僕の間に立って楯となり、僕を追い出すのだ。

最初は石もて追われた。が、それでは済まされず、穏やかに追い出してくれとか、(僕を)機嫌よく追い出してくれとか、追い出すのはやめて、弱らせて泣かせてくれとか、クライアントからいろいろ注文がついた。代理役でこれだけ演技力が必要だったのは初めての体験だ(笑)。

そして「石もて追われた」とき、僕の中の何かがうずいた。小さくなって崩れ落ちそうな感じだった。瞬間に、昨年自分がクライアントとなってやったセッションを思い出した。きっとあのときの自分と結びついている。

・・・

2日間あっという間だった。

丁寧で繊細。
2日間のワークショップでのハコミセラピーの印象だ。

ハコミセラピー(その1)ラビング・プレゼンス②

※ この投稿は、2019年8月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

(ラビング・プレゼンス①からの続き)

この日のワークで気づいたことがあった。それはペアワークをすると、僕の意識はほとんど相手の方に行っているということだ。相手が何を感じているのか、相手が何を望んでいるのか、相手はどのような人なのか。自分のことにはとんと意識が向いていない。

他の参加者は、嬉しかったやら、ほっとしたやら、もっと近寄って欲しいやら、勇気づけられたやら、自分自身が感じていることもシェアリングで述べるのだが、僕の場合、そのとき自分がどうなのか?さっぱりわからない。

なので、スタッフから改めて「自分の内側から湧き上がってきたもの」と問われたとき「何もない」というのは、そのペアワークのときだけの話ではない、少なくとも今日一日を通して、自分の特徴、または傾向だとわかった。

思考は働いていない。意識は今ここにあり、確かにペアの方と共にいる。評価もジャッジもしていない。ただ相手から受け取ったものを感じてそれを言語にしている。が、自分の内側に意識を向けたとき「空っぽ」なのだ。

感情を止めているのだろうか?
そういう感じはない。無理もしていないし、力みもない。

・・・・・・

「言語化出来ないだけかもしれませんよね。」

あとで質問したとき、講師が言った。

「無理に言語化する必要もありませんから。」

・・・・・・

実際、この「空っぽ」の状態は、自分がカウンセラーをするとき、セッションでは役に立つ。予断を持たないし、ジャッジも評価もしない。自分がどう見られたいといった気持ちも湧き上がらないから、常にクライアントと共にいられる。

これがいわゆる「透明な鏡」なのかもしれない、と今まではいいように解釈していたのだが、もしかするとそれは勘違いで「空っぽの鏡」だったのかもしれない、と考えると少し不安になる。

「自分の感情がわからない」ということを昨年しばらくテーマにしていたが、関係があるかもしれない。感情は24時間365日動いているという。ただ、それを感じ取れない、感情に受容体とでも言えるものがあるとすれば、その受容体が故障しているのかもしれない。

・・・頭であれこれ考えてもどうなるものではないことは学習済だ。「自分の内側を感じたときどうなのか。」しばらくテーマにしてみよう。

ハコミセラピー(その1)ラビング・プレゼンス①

この投稿は、2019年8月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

週末、ハコミセラピーのワークショップに行ってきた。初日の土曜日のテーマは「ラビング・プレゼンス」だ。

ハコミセラピーにおいては「マインドフルネス」と「ラビング・プレゼンス」がセッションの基礎となる。

僕を含めた参加者達はペアになったり、グループになったりして「ラビング・プレゼンス」の体験を重ねていく。講師が説明する。

「道を歩いていて、道ばたに、たんぽぽの花が咲いていたとしましょう。それを見つけたあなたはどう感じますか?『まあ、きれい!』とか『かわいい!』とか感じませんか?そのときのあなたの状態が『ラビング・プレゼンス』です。」

「相手の素晴らしいものを受け取る状態です。あなたのハートは開いていなければなりません。しかし、力む必要も、考える必要も、あるいは意識する必要もありません。ただ目の前の相手から受け取るのです。相手の状態すら関係ありません。たんぽぽが『わたし、きれいでしょ?』『かわいいって言って!』と考えているかどうか、それはわからないし、関係ありません。あなたがただ受け取る、それだけです。」

ペアを変え、お互いマインドルフネス状態になって、相手から受け取る練習をする。何を受け取ったか、お互いにシェアをする。一人の相手に対して、言うことはみな違う。それでいいのだ。相手にとってそれがしっくり来るかどうかも関係ない。ただこちらが相手の素晴らしさをどのように受け取ったか、それだけなのだ。

僕が、ペアの相手から受け取ったものをシェアしているとき、それを聞いていたスタッフの方が言った。

「相手の方がどのように見えたとか、感じられたかというよりも、あなた自身の中から湧き上がってきたものが大事なんです。相手の方のすばらしいものを受け取ったとき、あなたの内側から湧いてきたものはどんなものですか?」

自分の内側に意識を向けてみる。

・・・

わからない。

・・・

ただ静かに自分の内側を感じてみる。

・・・

わからないのではない。
空っぽだ。

「何もありません。空っぽです。」

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「ハコミセラピー(その1)ラビング・プレゼンス②」に続く