絶望を抱きながら進む

今日は、カウンセラーである友人のセッションを受けた。お題は「まさおちゃんの殻は固い」。友人にそう言われて「どういう感じなんだろう?」と疑問に思ったので、セッションを通じて、自分なりにそれを実感したいとお願いした。

カウンセラーは「まさおちゃんにとって『殻』ってどういう感じ?」とか「『殻』に入ってみる?」とか、いろいろと実験を提案してくれた。そのうち「何か繊細なものを『殻』で守っている」という表現に出会い、そこに何かヒントがある感じがしてきて、さらに「守っている」ではなくて「隠している」だと、さらにしっくりくる感じがした。

カウンセラーは、僕に許可を取って、シータ・ヒーリングで僕のボディをスキャンし始めた。そして「うん、やっぱり隠している。場所は膵臓のところ。膵臓は物言わぬ臓器だから、隠した上で、更にそれすら感じさせないようにしている。」「だけど、それは今、わかってもらいたがっている。」

そう言われて、今度は僕自身が自分の内側を感じて「膵臓のあたりに隠しているもの」を迎えに行った。

そこにあったのは「絶望」だった。過去生の体験というより心象風景だと思うが、廃墟の中で泣きじゃくる子どもの映像があった。絶望的な状況で、何もできない自分に更に絶望するという二重の絶望だった。

この絶望は何度も形を変えて見てきた。宇宙の暗闇に墜ちる自分。血の涙を流す子供。聴衆に石をぶつけられる説教者。

が、今度の絶望は今までとは意味が違った。いつも自分の中にこの絶望があったことを思い出し、そして「この絶望があったから、今の自分がある」と感じたのだ。更に言えば「この絶望によって僕は決意し、絶望とともに進んできた」のだ。絶望を乗り越えるのでも、絶望を光や希望に変えるのでもなく、絶望という世界の中で、自分にも絶望しながら、それでも今自分にできる何かを少しでもしようと、一歩また一歩と重い足取りで進んできた。それが僕なのだ。

僕は普段それを隠していた意図を理解した。が、それでも今、それを取り出し触れて思い出すことで、決意を新たにすることが必要だったのだ。気がつけば、僕は絶望から力をもらっていた。身体が温かくなっていた。