「内観療法」その1

※この記事は、2019年3月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

栃木県にある「瞑想の森内観研修所」で、内観をしてきました。

内観とは、ふすまと屏風で仕切られた畳半畳分のスペースにすわり、1日15時間、朝6時から夜の9時まで、一人で自分自身に向き合う作業です。これを1週間続ける。まあ「修行」です(笑)。

向き合う題目が決まっていて、自分の母に「して頂いたこと」「して返したこと(お返ししたこと)」「ご迷惑をおかけしたこと」の3つ。これを自分が生まれたときから現在まで(母が亡くなっている場合は逝去の年まで)、年代別に思い出します。1日7回、面接者が屏風をあけて「今の時間、誰に対していつの自分をお調べ下さいましたか?」と、うやうやしく座礼をして尋ねます。内観者は「母に対し、3才から6才の自分を調べさせて頂きました」と答えて、3つの項目をそれぞれ答えます。それが終わると、次の年代に移ってまた一人で内観します。面接者は3つの項目の報告に対して何もコメントしません。ただ「はい」と言うだけです。母に関する内観が終わったら次は父、次は兄など、自分の家族を対象に内観します。配偶者に関する内観もありです。

内観は徹底して「情報を遮断」し、自分自身に向き合う環境を整えます。研修所は山の中ののどかな自然に囲まれた土地にあり、たまに遠く学校のチャイムが聞こえるときはありましたが、あとは鳥のさえずりが聞こえる位。今は冬なので石油ストーブを入れてくれていましたが、内観していて聞こえる一番大きな音が石油ストーブの温風が吹き出る音。すごいのは、内観者同士は口をきいてはいけない。朝掃除があるのでそのときは内観者同士がすれ違うことがあるのですが、挨拶すらしてはいけないことになっています。もちろん目も合わせない。とにかく徹底して外からの刺激を排除して、自分自身に向き合うのです。

僕は瞑想や座禅などで慣れているので、半畳の中で座っているのも楽しかったですが、普通の人は苦痛です。が、それも3日目くらいから慣れる。ただ身体が慣れることと内観することは別で、1週間ずっと中で眠っている人とか、途中で帰ってしまう人もいるそうです。

内観は自分がどれだけ真剣に自分に向き合うかで効果が変わります。その真剣さをどこに向けるかといえば、3つの題目について「どれだけその情景を具体的に思い出し、描けるか」による、と僕は思いました。

例えば、過去の内観者の事例で、嫌悪している父に関して内観をするシーンがありました。彼は、父を嫌悪しているので、そもそも「して頂いたこと」など思い出したくもないし「して返したこと」もどうでもいいし、「迷惑をかけたこと」など、こっちが迷惑かけられっぱなしだよ、位の勢いです。それでも仕方なしに言われたとおりやっていると、高校時代、欲しかった格好いい自転車を買ってもらったことを思い出した。この情景で終わってしまったら、彼の内観は進まなかったのですが、彼は、その横にある「父の自転車」の情景を思い出したのです。「父の自転車はボロボロでした・・・。父は、乏しいお金を私の自転車のために使ってくれました。父は犠牲者でした。父は私のために犠牲になりました。」と言って、彼は泣き崩れます。父は自分勝手でケチで、子どものことなど何も考えていないと考えていた彼の思い込みが崩れた瞬間でした。

もちろん同じ情景を思い出してもこうした「気づき」に至らないケースもあるでしょう。いつ、どこで「気づく」かは、一人一人違います。なので、内観は1回やったら仕舞いではありません。母に関する内観一つとっても何度でもやるのです。具体的に情景をありありと思い出すことを一生懸命やっていると「気づく」瞬間に出会います。

内観は、他者からの強制は一切ありません。中日に個人面談があり、また食事中、内観のヒントになる他者事例などがテープで流されますが「こうしたらいい」などといった指導も助言もありません。それ故、自分がどれだけ真剣に向き合うかを試されるのですが、そこで得た「気づき」は正真正銘自分自身の気づきなので、その瞬間の心理的な転換はとても大きいのです。

その2では、自分自身の気づきについて書きます。

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