※ この投稿は、2020年8月20日にFacebookに投稿した記事の再掲です。
僕は自分から人の輪に入っていかないことを自覚している。向こうから寄ってくる人は拒まなかったが、昨年痛い目に遭って、拒まないことは、必ずしも良いことではないと知り、適切な距離を取ることを覚えた。
自分から入っていかないことと、来る者は拒まないことは、その裏に潜む自分の恐れに気づけば、表裏一体の同じことだ。
自分から入っていかないのは、拒絶されるのが怖いからだ。100%受け入れてもらえる保証がなければ、嫌なのだ。そういう気持ちがわかるから、人が寄ってくるときは、拒まない。自分が痛いから、人にも同じ目は遭わせたくないということだ。けれど、現実は、自分と同じ人ばかりではないので、この戦略は破綻する。(僕が)受け入れたということは、好かれているのだと信じて(僕に言わせれば勘違いして)、どんどん僕の領域に入り込んで、その限度を超えた時、僕が一番やりたくない「拒絶」をしてしまう。それは当然、相手をも傷つけることにもなる。
自分の中に「拒絶=自己存在の否定」という誤解が入っている。現実は、拒絶というのは、その人が僕のことが嫌だと感じただけであって、僕の存在が否定されたこととは違う。それなのに傷つき痛んだ自我が、拡大鏡のように現実を歪めて、自己の存在そのものが拒絶されたかのように、幻想を見てしまうのだ。
カウンセリングでは、そんな傷ついた小さな自分を癒やしていく。僕もやってきた。やってきたから、こんな風に俯瞰出来るようになってきた。が、一方で今なお痛みがあることもわかっている。
それから自分の中で「好き」も「嫌い」もあっていいと認めることだ。自分にとって、嫌な人は嫌、嫌いな人は嫌いでいい。それを自分に許すことで、自分が人から「嫌」「嫌い」と思われることも「あっていい」と受け入れられる。・・・そして「二元性を越えていく」というフレーズが頭に浮かぶけど、これは僕が得意な「逸脱(deflection)」。そこに飛びつかず、好きも嫌いもあっていい、その感情感覚にとどまることが大事。思考を止めること。判断を止めること。
・・・
ゲシュタルト療法の講座が始まって2日目。「『人が怖い』人は、人とコンタクトを取らない。取らない結果、現実から乖離して、自分の妄想が膨らみ、ますます怖くなる。悪循環だよね。」という話を聞き、自分ごととして、納得した。
現実には、僕の周りには「怖い人」はいない。カウンセリングを一緒に学べば、自分の鎧を脱ぎ、自分の弱さをさらけ出し、大の男も涙する。そんな光景を何度も見れば「一見怖い人ですら、実は悲しみを抱えている」ことは十分わかるのに、自分の内側の世界観がなかなか修正されないのには、むしろ感心するほどだ。
ゲシュタルト療法の日本での第一人者、百武正嗣さん。受講生は、彼のことを「ももちゃん」と呼ぶ。僕はこれがずっと言えず「百武さん」と呼んでいた。言えないのは自分の問題だとまではわかっていたが、今回、その正体に気づいてようやく「ももちゃん」と呼べるようになった。僕が「ももちゃん」と呼んだら「かわいい女の子が、オレのことをももちゃんと呼ぶのはいいが、お前には、そんな風に言われたくない」と拒絶されることを恐れていたのだ。言葉にしてみれば、どんな幼稚な考えが僕を止めていたのだろうと思う。いや、幼稚だとわかっているから、自分は幼稚だとばれないように、自分にもわからないよう蓋をしたのだ。
真実はこんなにシンプル。
わかってしまえば、笑っちゃうようなことだけど、ばれたらおしまいだと信じている本人を前にしたら笑ってはいけない。だって、本人にとっては、とっても深刻なことなのだから。
ああ、なんだか、自分のやりたいカウンセリングってこういうことかもって思ったよ。がんじがらめに縛ってしまった自分を、一つひとつ丁寧に紐解いて、幼い自分が生き延びるために一所懸命作り込んだ迷路を一緒に謎解きして、ああ、そうだね、こんなに頑張ったんだね。ありがとね、と感謝と共に手放していく。一つ手放すごとに少しずつ自由になって。
そして、もっと自分自身になっていく。