「内観療法」その3

※この記事は、2019年3月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

面接者は更に続けます。

「今まで面接させて頂いて気づいたことがあります。それはあなたは『自分の都合でみている』ということ。『見守って頂いた』ということを『して頂いた』こととして挙げておられましたが、相手は単に、何もかける言葉がなかっただけかもしれません。それがあなたにとって都合がよかっただけであって、これだけでは相手の立場がわからないのです。『自分の都合』ははずしてください。そのためには『もう一歩現場に行く』ことです。つまりもっと具体的に情景を描くこと、記憶の中の事実を可能な限り描き出すことです。そうすると『自分の都合』がはずれて『相手の立場』が見えてきます。」

ちょっとしょげましたが(笑)、気を取り直して,面接者に言われたことを心がけて2回目の母に関する内観を始めました。すると、小学校あたりから自分が「怒られないようにするにはどうするか」を気にして行動していることに気づきました。

怒られないように、忘れ物はしない。
怒られないように、いたずらはしない。
怒られないように、いい子でいる。
怒られないように、親には口をきかない(何か余計なことを言って怒られたくないから)。

それでもお風呂から上がってもなかなか身体を拭かずに怒られた記憶はありましたが、それは自分なりに「許容可能な」怒られ度合いだったのでしょう。

小学校3年生のとき父に小遣いを要求して、毎月お金をもらうようになったのですが、これも子どもの「戦略」でした。親に欲しいものをねだっても買ってもらえる場合と買ってもらえない場合があります。買ってもらえるものは、そのまま買ってもらうが、買ってもらえそうもないものは、小遣いを貯めて買う。

なかなか小賢しい。

年を経るにつれ、その戦略は高度化し、本のように「買ってもらうものに正当性があるもの」は、堂々と親にお金をせびり、「鉄道模型」のように、言っても無駄なものは、小遣いを貯めて買う。最大限、自分の欲しいものを得るためにどう親からお金を出させるか、無意識ながらそのような行動パターンをしていたのです。それは高校時代に頂点に達し、「買ってもらう正当性がないが、小遣いでは足らない」分、家のお金を盗むというところまでエスカレートしたのでした。

浅ましい。

さすがにへこみ、親に申し訳ない気持ちになりました。

その4に続く。