ゲシュタルト・スーパーバイズ

※この投稿は、2019年3月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

土日と、ゲシュタルト療法のスーパーバイズに行ってきた。スーパーバイズというのは、ゲシュタルト療法のファシリテーター(他の療法で言うところのカウンセラー)が、上級のファシリテーターからセッションの指導を受けられるというもの。僕はファシリテーターの資格はないが、ワーカー〔クライアント)として参加させてもらった。

ゲシュタルト療法に限らず、僕はスーパーバイズというものに出るのは初めてだ。なので見るもの、聞くものすべて驚きだったが、ゲシュタルト療法の、もしくは心理療法の、そして人生の、人の心の機微の、奥深さ、広さ、そして、人の持つ愛の深さ・大きさ、人が発揮する優しさ、切なさ、美しさを豊かに体験させてもらった。そして今は、その豊かな体験に心地良く安らいでいる。

何か具体的なことを書かないと伝わらないと思うのだが、他の方のセッション内容を書くわけにはいかないので、自分のセッションのことを書く。これで豊かさが伝わるかは心許ないが(苦笑)。

僕は2日目の最後のセッションのワーカーをやらせてもらった。要は最終セッションだ。この2日間、他の方々のセッションやそのスーパーバイズ、その後の質疑応答があまりに豊かで僕は満足していたし、特に自分のテーマもなかったので、セッション参加が自主性に任せられるものであったら自分は出ずに終わったろう。が、スーパーバイズはセッション数が決まっていて、それに見合う数のワーカーが参加するので、必ず僕の順番は回ってくるのだ。

嫌々ではないが、喜んででもなく、何をテーマにセッションするかも焦点の定まらぬまま、僕はファシリテーターの前に座った。そして前の日の他の方のセッションを見て思いついた、一つの候補としてのテーマ以外何も浮かばなかったので、それをテーマにした。

親の死を前にしても涙が出なかった。

両親、祖父母、友人、ペットの死を僕は体験している。
しかし一度も泣いたことがない。

悲しさを感じないということではない。ペットの死には悲しさを感じた。友人の死には、悲しさ、というか、死因が自死なり事故であったため、やるせなさを感じた。

しかし、親の死に悲しさはなかった。
「お疲れさん、ありがとう」という気持ちだった。

言っているうちに自分で気づいたが「喪失の悲しみ」が薄い。そんなことかもしれない、と思った。

しゃべっている僕の声は淡々としていて姿勢もしゃんとしていたんじゃないかと思うが、僕は自分の手の指が微妙に震えているのに気がついていた。このテーマについて、自分の意識にのぼってはいないが、身体が知っている何かがあるのかもしれないと思った。

上級ファシリテーターから介入が入る。

「今、何が起こっているの?」

僕に向けて言った言葉ではない。
僕の前に座っているファシリテーターに向けた言葉だ。

上級者との何回かのやりとりの後、ファシリテーターが語ってくれたことは、自分は「死」をテーマにしたセッションは避けてきた。他のテーマなら問題ないが、このテーマには自分自身の抱えている問題があると語った。

それでも上級者は容赦なく「その手はなんて言っているの?」とファシリテーターを追求する。そしてこれまた何度ものやりとりを経た後、ファシリテーターから「徐々に、ゆっくりと進んでいけばよい」という言葉が出てきた。

「その言葉をクライアントに言ってあげて。」と上級者が言う。

「徐々に、ゆっくりと進んでいきましょう。」

そうファシリテーターが僕に告げ、セッションは終了した。

セッション後、シェアリングがある。参加者が自主的にこのセッションで感じたことを述べる場だ。

今まで、死をテーマにしたことはないが、「感じられない」ということをテーマにしたときは、だいたい空気が重く、シェアの発言も少ない。少なくとも僕はそういう印象を持っている。なので「ああ、また重くしちゃったな」という思いが僕には芽生えていた。が、場自体が暖かかったのと、僕自身この体験になれてきたせいか、苦しい感じはなかった。

今になって思うが、シェアリングしようにも「(僕の体験に)共感する共通体験」がなければ、シェアしようもない。「やっぱり僕は特殊なのかな?」と思ったりもするが、今はそれが苦しさにならない。むしろ「未開の地の開拓者」みたいな気持ちだ。自分自身がまだ知らない自分自身を開拓するのだと思えば、この探求も楽しかろう。

カウンセリングは、ゲシュタルト療法に限らず、気づいていくのはクライアントだ。しかしこの僕のセッションでは、語ったのは僕だが、気づいていない。ワークしたのはファシリテーターで、ファシリテーターから出てきた言葉を僕に伝えられて終了している。

が、僕には不全感はない。気づいてはいないが「ま、そうだよね」と納得している自分がいる。そしてセッション前より更に落ち着いて、前向きだ。

この変化は何なんだろう?
これがセッションの効果だったのだろうか。

理由と理屈を知りたいと思う自分がいるが、ゲシュタルト療法ではまずは体験を味わうことを大事にせよ、と言われる。

理論や解釈に飛びつかず、今はただこの感覚を味わおう。