絶望と望み。闇の深さ

この投稿は、2019年5月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

松山に住む心友Mちゃんが仕事で東京に来るというので一緒に夕食をした。2ヶ月ぶりの再会だ。Mちゃんと話すと、気がつくとカウンセリング・セッションになる(僕がクライアント)。今回もそうだった。

・・・いろいろな話をした後、たどりついたのは、「どうせわかってもらえない」という気持ちの深さだった。それは「絶望」と表現しても差し支えないほどの深さだった。事実はそうでなくとも(わかってくれる人がいても)、僕自身は、深い深いところで絶望しているのだ。

「だけど、それは子どもの心の誤解で、本当は『深いところで人とつながりたい』という望みなんだよ」とMちゃんが言った。

最初、その言葉は僕には響かなかった。「そうなのかもしれないが、今の自分の気持ちは、『どうせわかってもらえない』が強い」と感じていたからだ。だが「感じること」にフォーカスしていると、自分が「絶望」の闇にどんどん深く入っていっていることに気づいた。心理療法でありがちな、子どもの頃の記憶などではない。思い出すような記憶はないのだ。ただただ感覚で「闇」の深みにどんどん入っていった。イメージで言えば、地中深く潜っていく感じだろうか。

そして驚いたことに、その深みには、Mちゃんもいた。

この間、言葉はほとんど交わされていない。深みにいるというのは、僕の感覚の中の話で、Mちゃんに誘導されたわけでもないし、僕が「今、自分は闇の深みにいる」とMちゃんに解説したわけでもない。にもかかわらず、僕が奥深く潜っていった闇の深いところにMちゃんは一緒にいる。しかも余裕で!それをただ「感じた」のだ。

「Mちゃん、ついて来てるね?」僕はそれだけ言った。
「そらそうよ、私は知ってるもん。」Mちゃんは即答した。

気がつけば、その絶望の闇は、「どうせわかってもらえない」ではなかった。
「つながりたい」だったのだ。闇を降りて、深い、深いところに行ったら、そこにあったのが「つながりたい」という望みだった、という感じだろうか。

こんな「深み」でつながりたいと思っているのか。

この「深み」は「深み」という以外、他の言葉で表現や説明が出来ない。具体的な記憶が紐付けられているわけではなく、ただただ「深い」としか言えないのだ。だが並大抵の深さではない。「思考」はもちろん、「感情」も届かない、ただただ「感覚」でしかたどりつけない「深み」だ。

「Mちゃん、これは相当諦めが悪いね。こんな深いところで、つながりたい、わかりあいたいなんて普通思わないよ。」
「そうよ。でもそれがまさおちゃんの本当の望みなんよ。そしてそれがしたくてここにいるんよ。」

そうか、僕がカウンセラーを志す本当の動機はこれだ。
この「深さ」で人とつながろうと望んでいること。
少なくとも僕の方にその準備があること。

Mちゃんのように、クライアントが望めば、その深みに一緒にいられること。言葉で表現出来ない世界だ。ただ「いる」という感覚だけが頼り。

だが一人ではここにたどりつけないのだ。

そこは痛みの世界だから。Mちゃんが一緒ににいてくれたからそこに行けたし、痛みもなかった。いや、それどころか、痛みは誤解だったのだ。実は痛いと思い込んでいただけで、深い深い闇は、むしろ暖かかった。何もない闇は、実はすべてがあった。ただ具体的な事象になる前の姿、形になる前の形。それが闇だった。

・・・

・・・言葉にならないもどかしさがつきまとう。だがこれ以上補足しても、僕が感じた、僕にとっての真実は表現出来ないだろう。Mちゃんへの感謝を表して、ここに筆を置く。