さみしがり屋の一人好き

※ この投稿は、2019年6月にFacebookに投稿した記事の再掲です。

一人が好きだ。
といっても、ひとりぼっちが好きな訳ではない。

「さみしがり屋の一人好き」

僕は自分をそう思っている。

多くの人の中にいるのは好きでない。
特に居酒屋でテンション高く盛り上がっている集団は苦手。
僕はそこまでテンションが上がらない。
皆に合わせようとすると無理をすることになる。

・・・・・・

人といるとき「話をしなければならない」という呪縛から解放されて、以前よりだいぶ楽になった。

象徴的な体験をちょっと前にした。

ある女友達から「急に(僕の)顔が浮かんだ」という連絡が来た。面識はあるが、彼女はもともと無口なこともあり、お互い突っ込んだ話はしたことがない。

しかし友達から急に「会いたい」と言われることは今まで結構あって、その場合だいたいが相談事なので、今回も「たぶん何か相談か、話を聴いて欲しいことがあるのだろう」と考えて、日程を調整して二人で夕食をとることにした。

お店に入って向かい合って座ったものの、二人きりで話をするのはこのときが初めてで、何をしゃべったら良いのかわからない。何か思い出すと、どちらかがぼそぼそっと話して、それを聞いて他方がぼそぼそっと応える。そして無言となり、お互いがもそもそと食事をとる。

そんな風に時間が過ぎて、結局彼女からの相談などは何もなく、夜は更け、店を出て別れた。

結局なんだったのだろう?と思いつつ帰路についたところで
彼女から連絡が来た。

「楽しかった!ありがとう、またお願いします。」

彼女からのメッセージをもう一度よく読んでみると、「何も気負わず、何も気遣わず、誰かと過ごしたい」と書いてあった。

そうか、そういうことだったのか。
ならば、確かに僕はその相手としてうってつけだ。

彼女は僕と過ごして「何も気負わず、何も気遣わず、しかし一人ではない時間」を過ごすことが出来たのだ。

「さみしがり屋の一人好き」同士だからこそ持てる時間。
彼女は直観的に僕を「同類」と見抜いたのだろう。

人は一人では生きていけない。
「つながり」が必要だ。

衣食住の心配がほぼなくなった現代日本においては生命維持のために「誰かといる」必要性は薄れている。その分、どこでどうつながりたいのかが問われてくる。

「さみしがり屋の一人好き」は、言葉でつながりたい訳ではない。
それが苦手だから一人を選ぶのだ。しかしそれでもひとりぼっちは嫌だから「存在」でつながれる相手を探すのだろう。

ただ一緒にいる。
お互いがお互いに「素」の自分でいることを許す。
相手に気遣うことなく、ただただ相手と自分が「居る」時間と空間を感じること。

そんなことが必要な人もいる。

「そだねカフェ」はそんな人達の居場所でいたいと思っています。