※ この投稿は、2019年7月にFacebookに投稿した記事の再掲です。
あけみちゃん講座 第3期の同期生である舞衣ちゃん(石川舞衣子さん)の個人セッションを受けた。第3期は2010年開催だから、舞衣ちゃんとは、かれこれ10年近いつきあいだ。
舞衣ちゃんは、僕自身が無自覚かつ感じられない、僕の心の奥底にある僕の悲しみや愛について、第3期の頃から指摘してくれていた。当時はまったくちんぷんかんぷんだったが、9年経ってようやく僕の自覚が追いついてきた感じだ。
そしてようやく僕の意識に浮上してきた、その悲しみや愛に、僕自身がつながれるようになりたい。そういう漠然としたテーマで舞衣ちゃんにセッションをお願いしたのだ。
この日は僕が口にした「距離感」という言葉からセッションが始まった。「『距離感』と言って感じたり、思い出したりすることはある?」と舞衣ちゃんが尋ねる。僕が思い出したのは、以前ブログに詩の形で投稿した「泣いても構ってもらえなかった絶望感」だった。
舞衣ちゃんは、その「絶望」に居ながら、自分と目を合わせて、と言う。舞衣ちゃんと目を合わせるということは、舞衣ちゃんと「つながっている」ということだ。泣いても親に構ってもらえなかった僕は「つながること」を諦めている。なので目を合わせてもすぐに目を伏せたくなる。その方が楽なのだ。けれど、そうすると舞衣ちゃんはまた「目を合わせて」と言う。
落ち着かない居心地の悪さを感じながら目を合わせ続けていると「絶望」のただ中にあっても「一人でない」という感覚になる。親には見捨てられたと絶望している小さな子どもの自分が、親とは異なる「絶対に見捨てない」目をしている舞衣ちゃんを見つめている。
だが、僕の「絶望」はその程度で癒されるほど簡単ではない。舞衣ちゃんもそれはよくわかっている。
「何度も何度も絶望してきたよね。やってもやっても、報われなかった。人生かけて取り組んだのに、それでも何も変わらなかった。」
僕たちは、僕の子供時代の記憶を越えて、もっと深い、漆黒の闇に堕ちていった。
(その2)に続く