この投稿は、2019年9月にFacebookに投稿した記事の再掲です。
週末はゲシュタルト療法ベーシック講座。最近の自主トレで「母性をスルーしてる!」と指摘されたことを受けてワークした。
「母は、子ども4人かかえて、炊事、洗濯、料理に片付け、いつも動き回っていたのです。僕は母に『遊んで欲しい』とか『話を聴いて欲しい』とか思いつくことすらなくて。いっぱい世話してもらいましたが、直接的に『大好きだよ』とか抱きしめてもらうとか、そういうのもなくて。そのあたりで僕は僕自身の欲求を抑圧してるのかなぁ、と。」
さっそくエンプティ・シートで母の座を設定する。
予想されたことだが、僕は母の座布団を見ていると、母の立場をおもんぱかる気持ちになる。
「お母さんは、親の顔も覚えていない子どもの頃に、養女に出されて、育てられたんだものね。しかも養父母は料亭を経営していて忙しい。お母さん自身が直接的な愛をもらっていなかったのに、息子の僕に、愛を表現するったって無理だよね。」
途中経過は覚えていないが、あれこれ母の座に話しかけているうちに、おなかに暖かさを感じた。
「・・・あれ?おなかが暖かい・・・。」
その瞬間、腑に落ちた。
「そうか。お母さんの愛は言葉で表現されなくても、僕の身体に入っているんだね。そうやって僕はいっぱい与えてもらってきたんだね。」
ファシリテーターに促されて、母の座に座る。
「愛とかなんとか、恥ずかしいから、よしておくれ。お母さんの年代はそんなことよう言わないよ。お母さん、台所仕事で忙しいから、さっさと遊びに行きなさい。」
そうだったのか。これが家庭の構図だったのだ。母は照れて言わなかっただけ。照れて、直接表現をしなかっただけ。でも、僕は身体で母の愛を受け取っていたのだ。
・・・
「感じられない」僕が、ファシリテータから指摘されるのではなくて、自ら体感覚に気づいて誤解が解けるという経験は今回が初めてだ。そろそろ「感じられない僕」というのは卒業して「感じられなかった僕」くらいにしておいてもいいかな。