断ち切る勇気

※ この投稿は、2020年7月24日にFacebookに投稿した記事の再掲です。

カウンセラー仲間のKちゃんとセッションをした。お互いにカウンセラーロールとクライアントロールの交換をしたのだが、ここでは僕がクライアントのときの話を記録のため、書き留める。

僕は自分が「動けない」ことをテーマにした。セッションの機会があるごとに言い方を変えて出しているテーマだ。「自分の内側からエネルギーが湧いてこない」「『ねばならぬ』ではしたくない。『やりたい』エネルギーで動きたいのに『やりたい』が出てこない。」今回は「自分はビジネスに向かえない」という言い方にした。

一通りのヒアリングと試行錯誤の後、Kちゃんは、僕に「身体を感じてみてください」と提案した。身体を感じてみると、僕は「休みたい」「寝ていたい」「ダラダラしていたい」と言った。Kちゃんは「その感じをじっくり味わって。どんどん感じて、身体で表現して」と言う。僕は座っていた椅子からおりて、床の上に丸まった。

ただそうしていると、身体は丸まって寝ていたいのに、怒っているような、何かを訴えかけているような、身体を鼓舞しているような何かが自分の背中から糸でつながって存在しているような感じがした。

(ああ、切り離した僕の「怒り」だ)

この「怒り」は以前見たことがある。僕は「怒り」を自分から切り離して、感情を凍結した。必要があってそうしたのだが「怒り」はそのとき、僕の「エネルギー」も持っていってしまったので、僕の身体には「エネルギー」があまり残っていないのだ。

Kちゃんは、切り離した僕の「怒り」の「代役」としてなってみていいか?と提案し、僕は了承した。

僕の背中に「怒り」となったKちゃんを感じる。Kちゃんは、僕に「遊ぼう」と提案する。そんな気持ちになれない。次に「こっちを見て」と言う。床に座り直して、「怒り」となったKちゃんを見る。Kちゃんは床に丸まって横になっている。「自分では起き上がれない。起こして。」とKちゃんが言う。起こす気になれない。

「あんたが俺を自分から切り離したんでしょ?一緒にならないと、俺は動けないんよ。だから起こして。」

そう言われても起こす気になれない。
むしろ心が冷えていくのを感じていた。

僕は丸まっているKちゃんから距離を取った。

そして普段は口にしないような冷たい口調で言い放った。

「起きたきゃ自分で起きな。俺は起こさないよ。」

Kちゃんが応える。

「俺はあんただろ?あんたの一部だろ?俺は一人じゃ動けないんだよ。」

「知らん。あんたは俺じゃないよ。あんたは俺の『言い訳』だ。そうやって理由を作って動けないことにした。」
「一人では動けないと思うなら、そのまま一生寝てな。」
「動けない自分も、エネルギーの足りない自分も、全部自分なんだ。言い訳しないでそれを引き受けろ。その上で、動けない自分で動くんだよ。すぐ諦めようが、息切れしようが、それでやめるか、続けるか。それだけなんだよ。今の自分で肚を決めろ。」

言っていながら「ああ、そうなんだ」と腑に落ちていた。動けない自分を引き受けて動くのだ。コミットしない自分であることをわかりながら、コミットするのだ。中途半端な自分であることを承知で前に踏み出すのだ。

いつか「カチッ」と歯車が噛み合って、突然「現実が動き出す」なんてことは起こらない。「時を待って」いたって、そんなことは起こらないのだ。

足かせをはめて歩くような重い足取りで、歩き出してもすぐ息切れする衰えた体力で、遠くも見えない、人の表情も読めない近視の目で、人の話の聴けない耳で、かっこ悪い、中途半端な自分のままで、一歩を踏み出すのだ。自分を信じられない、自分を誇れない、それでも人の役に立ちたいと願う、ヘタレだけど、健気な自分で出ていくのだ。

「やりたい」想いは持っている。自分の心の奥底深いところにそれはあるのだ。それ以外の自分の身体が「ねばならぬ」でしか動かないなら、それで動かすしかない。今それしか知らないのだから、しょうがない。「今ある自分」で今を生きるしか術はないのだ。

今まで自分は、何も切り捨てないで来た。「人生に何一つ無駄なものはない」という美しい言葉を生きてきたつもりだった。が、その結果、背負いきれずに自滅したり、全部を活かそうとして、何も決められなかったり、自分で切り捨てない分、人が切り捨てるように仕向けてきた。そうやって逃げていたのだ。

逃げても誰も救ってくれない。
逃げて誰かがお膳立てしてくれる訳でもない。
天は自ら助くる者を助く。

やりたいことがあるなら、四の五の言わず、自分にそれをさせてやれ。