笑わない自分

※ この投稿は、2020年10月3日にFacebookに投稿した記事の再掲です。

小中高時代、笑ったことがない。

小学校の通信簿には「冗談を言っても笑わない子」と書かれたし、実際この時代の写真、どれを見ても僕は常に仏頂面だ。自分の記憶をたどっても「面白くないのに、なんで笑わなきゃいけないの?」と思っていた。小学3年生のときの劇発表で、迫真の演技を先生に絶賛されて「将来役者を目指そうか」などとちらりと頭をよぎったが、「笑えないから役者は無理だ」とすぐに諦めた。

何かきっかけがあって笑わなくなった、という感じはしていない。少なくともそのような体験を思い出したことはない。

ただかなり早い段階で、世界に見切りをつけていた(=自分に見切りをつけていた)と、過去のカウンセリング体験から理解している。

昨年7月に「金色の宇宙人」というタイトルで投稿したとおり、カウンセリングの中で、見切りをつける前の自分に会いに行ったら、地球におりる前の宇宙人の自分にまでさかのぼる体験をした。それが妄想でなかったとしたら、いったいその後、どれだけの人生を笑顔のないまま生きてきたのか。僕の(地球人としての)過去生で、最も古いと思われるものは、ケルトのドルイド僧としての体験で、それは紀元前1世紀以前らしいから、ざっと2,000年以上、失敗と挫折の人生を繰り返し歩んできたことになる。

・・・そりゃあ、笑顔も消えるわな。
諦めてもおかしくない。

それでも今、僕がここに生きている、ということは、もうすっかり諦めたといいつつも、諦めていないということだ。「今度こそ!」などという言葉すら、自分には白々しくて使えないほど、失敗と挫折を繰り返した。希望があるフリなど出来ない。だから口はいっさいつぐんだまま、ただ生まれ直してきたのだ。決して期待を持たずに、それでも何か出来るかもしれない、というかすかな思いを胸の奥深くに隠したまま。

そんな僕だから、魂のミッションも感じても「わくわく」にはつながらない。「やらねばならぬ」。ある種、悲壮感すら漂う決意としてのミッションなのだろう。

・・・

「シルバーバーチの霊訓」というものがある。いわゆる霊界通信だが、その中の一節で僕の心の支えになっている言葉がある。それは「人の役に立とうとするのに、大勢の人々を相手にしなくても良い。一生の間に、たった一人の人の役に立てたとしたら、それで十分。」という趣旨の言葉である(内容はうろ覚え)。
・・・それくらいなら、もう出来ているかもしれん・・・。

・・・

そのようにして、今に至る。

ここまで書いてきて、もうそろそろ、自分を赦してもいいのかな、と思う。そもそも自分で自分を罰しても、自分から笑顔を奪っても、何もいいことはない。
僕が僕のミッションを果たそうとするのに、笑顔はむしろ必須のものではないか。

zoomを使うようになって、いやが上にも自分の顔を画面を通じて見ることが増えた。いつも自分の笑顔がぎこちないな、と思う。口角があがらないのだ。まぁでも、長きに渡って笑顔を封印してきたのなら上手に笑えなくても、しょうがないかな。それも自分を赦してあげよう。