ゲシュタルトの祈り

※ この投稿は、2020年10月23日にFacebookに投稿した記事の再掲です。

ゲシュタルト療法の某講座での話。チェックイン(講座開始時の簡単な挨拶)のとき、参加者の女性が自身の体験をシェアしてくれた。

「私、信号は赤で渡るんです。うちの前の道路は車通りも少なく、道も細いので、赤でも渡ってしまうんです。ただそばにお子さんがいるときは、教育上の配慮から信号が青になるまで待っています。」

「それから赤信号を渡ると他人であろうが注意する青年がいまして、彼がいるときも、赤信号では渡らないようにしているんですが、この前、彼がいるのに気づかなくて赤信号で渡ってしまって。」

「そうしたら案の定、彼が寄ってきて、私に注意して。私、にっこり笑って『ごめんなさい』って言えたんです。そんな風に言えた私が嬉しくて。それをみなさんとシェアしたくなって言いました。」

僕は彼女の話にえらく感動した。

が、念のため、あとで彼女に質問してみた。
「これからも彼がいないときは、赤信号でも渡るんですよね?」

彼女は一瞬考えて
「もちろんよ!」と答え、僕はとってもすっきりした。

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ゲシュタルト療法を学んでいると、人間関係における深い洞察がベースにあることに気づく。それは「ゲシュタルトの祈り」というゲシュタルト療法創始者のフリッツ・パールズの言葉に集約されるのだが、ゲシュタルト療法を学んでいる僕が理想とする人間像が、彼女の話に集約されているように思えて、僕は感動したのだ。

彼女は、(彼女自身の判断と責任において)赤信号であっても道を渡る。それは彼女が自分自身の考えと選択を大切にしているということである。

しかし子供や青年の前では、赤信号では渡らない。それは他者に配慮し、尊重しているからである。

そして青年の前で赤信号を渡り、青年が注意してきたとき、彼女が青年に謝ったのは「法を破って申し訳ない」からではない。「あなたを不快にさせてごめんなさい。」という意味だ。彼女は正邪を争わない。私は赤信号でも渡るけれども、あなたは赤信号で渡ってはいけないと考える人なのですね、そんなあなたを尊重します、ということだ。

しかも、彼女は注意してきた青年に対して「うるさいやつだ」とも「他人に口を出すな」とも思っていない。悪感情を持たず、ただその瞬間に起こったことに対して、自分も青年も尊重する選択が「ごめんなさい」だった。ただそれだけなのだ。

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僕が同じ目にあったとしたら、気持ち良い笑顔を返せるだろうか。青年に対し悪感情を持たずにその場を去れるだろうか。意見や考えの異なるものをそのままにただ置いておく。自分自身のあり方を100%尊重しつつ、相手のあり方も同じように尊重する。そこに齟齬や矛盾があっても、齟齬は齟齬のままに、矛盾は矛盾のままに。

人々がそのようになっていけば、争いはなくなるのではなかろうか。
一人ひとりが生きやすい世界になっていくのではないだろうか。

だから、僕は理想と考えるのである。

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「ゲシュタルトの祈り」

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えるためにこの世に在るのではない。
あなたも私の期待に応えるためにこの世に在るのではない。
あなたはあなた、私は私。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
しかし出会えなくても、それは仕方のないこと。

(英文)
I do my thing, and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations,
And you are not in this world to live up to mine.
You are you, and I am I,
and if by the chance we find each other, it’s beautiful.
If not, it can’t be helped.